学童疎開&東京大空襲 小熊俊夫 氏 平成25年12月 投稿 
  ー 戦争体験 ー  「学童疎開&東京大空襲」

 
 「学童疎開と一時帰宅した日の深夜の京浜地区大空襲」  ー昭和20年(1945)5月24日ー        *小熊 俊夫(81歳)*

浅草側から見た言問橋炎上 絵 狩野光男氏
戦後70年の節目を迎え、戦争体験世代の私は戦争の現実と悲惨さ平和の尊さについて体験し、学校では「日本は軍備をもたない。戦争はしない」と憲法の文言通りの解釈を教わりました。日本の平和を支えているのは9条。戦争の放棄という人類の理想と願いが込められた憲法です。
私は昭和19年(1944)9月中旬、大田区馬込第3小学校生4年生で、学童疎開で伊東市(静岡県)へ疎開しました。学校側は引率教諭の大林幸男先生と木下寮母さんが疎開されました。疎開先は伊東市中心部の映画館前にあった小規模の山田旅館でした。私達児童は男女で約20名と記憶しています。疎開先の最初の授業は旅館内でしたが、翌年4月(1945年)、5年生に進級し市内の小学校に転入しました。日本の戦況が一段と厳しくなり、食糧事情も一段と悪くなりました。最初の疎開先静岡県伊東は食糧事情がよくなく、ご飯はさつま芋入り、または大豆入りの混ぜご飯で、白米一色のご飯は殆どありませんでした。おかずには地元産の魚類が多く副えられていました。伊東市には大田区内の小学校から学童疎開に来ていました。さつま芋の収獲時期には街中の軒先に、さつま芋の干し芋[乾燥芋]が吊り下げられていて、学童疎開児が干し芋を盗んでいると言われ、伊東警察署から各学校側へ生徒への指導が出されていました。起床してから朝食までの間、毎朝、旅館前から表道道路の掃除をしました。表道路に面して伊東映画館があり、開館日の入場券売り場前に釣銭の小銭が毎日のように落ちていました。小銭を拾って先生へ届け、先生は伊東警察察に届けていました。
一方伊東市の海上(初島方向)に爆撃機が飛行する危険な情況になりました。旅館近くの海岸には墜落した米国機の残骸が打ち上げられ、残骸にスポンジが使用されていました。これは後で分ったことですが、初めて見るスポンジであったことです。伊東市は段々と空襲警報が多くなり危険な情況下となり、急遽、昭和20年(1945)6月中旬に、岩手県盛岡市内の久昌寺へ移動しましたが、盛岡市も1ヶ月後に危なくなり、岩手県花巻市の山の中腹にあった新仙寺(最寄駅:JR石鳥谷駅)へ移動し、新仙寺では最初から石鳥谷小学校へ転入しました。空襲で直接おびえる日はなかったと記憶しています。盛岡市の久昌寺、花巻市石鳥谷町の新仙寺では疎開先がお寺であったことから、特に、新仙寺のお供物は住職の配慮で、疎開児がいただくことの機会がありました。毎日の食事は伊東より盛岡市、盛岡市より石鳥谷町の方が良かったと言えます。新仙寺では住職の配慮もあって、毎日が殆どお米のご飯(白米)であったと記憶しています。伊東市から盛岡市へ東海道線&東北本線で移動する際、横浜駅近辺から焼け野原を走り品川駅に到着。品川駅で一時停車し家族と再会する機会がありました。私の場合、被災後、両親・姉達は兄の6月1日の入営を済ませ、父親の実家である新潟県東三条市へ一時疎開しましたので、家族に会うことができませんでした。私達学童は望んで疎開をしたわけでなく、当時の閣議決定により東京など全国で約59万人余が地方の市町村に移住となりましたが、疎開先の受け入れは決して十分でなく、食糧はカスカスで学童たちも教師も苦闘の日々と聞いています。伊東市の疎開中のことですが、兄が昭和20年(1945)6月1日に軍隊に入営することになり、両親の計らいがあり家族で兄の入営を祝うことで、5月23日に兄が疎開先に私を連れ戻しに来ました。連れ戻された日の夜24日深夜に、京浜地区一帯の大空襲があり、B29機の爆撃による焼夷弾で、自宅を始め家作(3軒)の総てを失いました。私の自宅は、馬込第3小学校の裏手にありました。爆撃を受けた時、私達家族は防空壕の中で避難していました。B29機から焼夷弾は閃光花火のように落とされました。焼夷弾は防空壕を直撃しましたが、防空壕の天井は畳を重ね置いて造っていましたので、焼夷弾は防空壕の出入口付近に跳ね飛ばされ爆破しました。防空壕を抜け出し、父親の指示・誘導で家族一人一人が防空頭巾の他に布団、敷布を被り、風下の荏原町駅方面に逃げました。火粉の関係で、隣近所の人達と逆方向に避難してしまいました。街中は避難する人達で、焼夷弾の直撃を受け倒れる人、延焼による酸欠で倒れる人、牛が火を見て逃げ回るなど大混乱のなか走り逃げ廻りました。最後に行き着いた場所は、街中にあった造園の土手の斜面地帯でした。

一面火の海の中、段々と呼吸困難になり、避難するなかで被っていた掛布団を一枚捨て、一枚捨て最後に敷布が一枚残っていました。私達家族は最後に残った敷布を溝(ドブ)に浸け、敷布を口に当て水分を取りながら呼吸の苦しさに耐えていた時、父親が家族全員6人(両親、兄、姉2人、私)を集めて、「もう駄目か!!ここで死のう」と言い出しました。その時、幸いに造園を挟んだ道路の反対側で鎮火が始まり、鎮火した一面焼け野原の場所へ移動ができ生き延びました。一枚の敷布に家族全員が救われましたが、住む家を失いました。鎮火後の光景は、火災から免れた家は一軒もなく、一夜にして一面焼け野原に変り果てました。

一方、被災地に時限爆弾が仕掛けられているとデマが飛び交いました。避難の途中で雨が降り出し、一瞬恵みの雨と思いましたが、鎮火してから上着に付着した斑点で、揮発性の油(油脂?)であったことが分かりました。私が防空壕を抜け出した時、焼夷弾が爆破し顔面爆風を受けました。幸い火傷は免れましたが、まつ毛が焦げて無くなっていました。鎮火後、避難先の馬込第3小学校へ移動しました。顔はくすんで目がチカチカして開けていられず、まつ毛が焦げて無くなっていることに気づきました。爆風でまつ毛が焦げて無くなっていることが原因でした。馬込第3小学校にも焼夷弾が落ちましたが、幸い不発弾で火災は免れました。避難所でおにぎりが配られましたが、街中にあった米倉庫が焼夷弾の被災で蒸された油の臭のするお米で作られたおにぎりで、口にするのに抵抗があったことを覚えています。空襲の翌日25日、防空壕から出たところをグラマン機が低空飛行し防空壕目がけての機銃掃射を受け、怖い思いもしました。兄の入営(出征)を祝うために自宅の防空壕には、物資が無い食糧難の中、両親は苦労して食料品(酒、砂糖、味噌、醤油、米、野菜等)を買い集め、防空壕に大事に食料品を保存していました。防空壕の中が冷え切らない内に防空壕の出入口の扉を開けたため、防空壕に酸素が急激に入り大事にしていた貴重な食糧品が燃えて、食料品他衣類の総てを失いました。冷え切ったところで防空壕の扉を開ければ、食料品は助かったかもしれません。
防空壕も失いましたが、幸い近所の防空壕を借りることができました。借りた防空壕は、鉄工所を経営していた方が鉄板等を使って造られた頑丈な防空壕で、安心して使うことができました。鉄工所の家族は、危険を感じ疎開されました。

5月30日に避難所生活に別れを告げ、疎開先の伊東市に戻る時、空襲の被災で大井町線、京浜東北線は運転休止。兄に連れられ大井町線の荏原町駅から大井町駅経由で京浜東北線の品川駅まで、線路の枕木の上を歩きました。線路沿いには多くの死体が横たわりトタンが被され、悲惨な光景でした。逃げ場を失い線路の空間を求め、多くの人達が避難され焼死されたことだと思います。品川駅からは東海道本線(蒸気機関車)は運転されていました。品川駅から伊東駅へ向かう東海道本線の途中、横浜駅で顔・手/足を火傷された乗客が多く乗り込みました。街角に消防団員が立哨していて、避難する人達に逃げるとは非国民だと罵声を浴びせ、妨害されたと言っていたことを覚えています。横浜の大空襲は前日の29日であったと記憶しています。
11月に馬込第3小学校側の受け入れ体制と帰京の手続きが整い、学童疎開先から東京に戻ることができました。東京へ戻る東北本線の途中駅、一ノ関駅、終点の上野駅で進駐軍の身体の大きな外国人兵士、特に黒人兵士を見て驚きと脅威を感じました。私達家族は親戚の世話になり、旧品川区役所前のアパート(桜荘/火災を免れた)に入居できることになりました。従って、5年生の残り2学期、3学期&6年生は、母親の転校は可哀想だとの計らいで自宅から大田区馬込第3小学校へ、大井町線(現在、田園都市線)に乗り、電車(大井町駅⇔荏原町駅)で通学し卒業しました。
小学校は馬込第3小学校に在学・卒業、中学校は地元東海中学校に入学しました。桜荘のアパートでは8畳一間に6人が生活しながら、東海中学校1年の時、両親が品川神社裏に土地を購入しました。父親は故郷新潟県東三条市で木材を調達し、大工さん3人が上京し現場に掘建小屋を建て、小屋で寝起きしながら家を建ててくれました。家は全焼し総てを失い、戦争のため国から何ら保証もなく、金銭的な支援も全くなかったと両親から聞いていました。
終戦後の生活では父親に連れられ、お米、さつま芋の買い出しに埼玉県上尾方面へ出掛けました。上野駅から列車に乗りましたが、大混雑で窓から押し込まれたこともありました。農家を訪ねて買い求めましたが、断られたこともあり、お金でなく物々交換(こちらは母親の着物類を持参)のケースもありました。品川駅から品川神社裏の自宅(東海中学校1年時にアパートから転居)に帰る時、途中に交番が在り、交番前を避けるなどして自宅に帰りました。当時は交番で巡査に捕まると買出物(米、芋類)は没収されました。新橋駅前の闇市場(闇市)にも出掛けていたことを思い出します。通勤時間帯では一般乗客の乗車は出来ず、新橋駅から品川駅まで歩いたことを覚えています。旧品川区役所は第1京浜国道に沿ってあり、その品川区役所前に京浜急行電鉄所有のビル(京浜急行倶楽部)がありました。当時、そのビルは米軍に接収され米軍専用のビア ホール(Beer Hall)になっていました。私達はそのビルの隣にあったアパートに住んでいましたので、彼等米兵達がチュウインガム、チョコレートをアパート内に売りに来ました。買う人は誰もいませんでした。アパートの2階から、米兵達がビア ホール内で、よく白人と黒人が喧嘩しているところへ横浜方面からMPがジープで駆けつけ仲裁に入っているところをよく見ました。米兵達は軍用トラックに乗り、飲酒運転で交通ルールを無視し暴走しながら横浜方面へ戻って行きました。

学童疎開は親元を離れた生活でしたが、友達の中に溶け込むことができホームシックもなく集団生活ができました。集団生活に馴染むことができず途中で親元に帰る友達もいましたが、私は学童疎開で自立性、協調性、忍耐力、の大切さ、そして戦争の怖さを学び、疎開先での集団生活は私にとって貴重な経験になりました。戦後の復興には日本人のDNAである勤勉、努力と誠実さで、サラリーマンは企業戦士となって必死に働き、高度成長に協力し復興を成し遂げました。その後の幾多の経済危機には日本人の 知恵と行動力をもって日本経済を成長へ導き、「安全と安心」の平和な社会を築いてきました。現在、私達は憲法に守られた民主主義国家で、平和の社会で生活できていることを誇りにしています。

今秋の国会で審議された安全保障関連法案は、憲法違反の指摘、根強い世論の反対にもかかわらず衆議院で安保案が強行採決し、参議院へ送られ9月19日未明に成立されました。参議院で審議が行われましたが、意味不明な国会答弁を重ね、国民の疑問は置き去りされました。安保保障関連法案は、国民の多数がはっきりと懸念を示し、戦争への段階を踏んでいると危惧しています。戦後70年、日本を取り巻く尖閣諸島を始めとする安全保障環境の情勢は、厳しさを増していることは理解しますが、米国の意を忖度して一緒に戦うのでなく、これからの日中関係を考えるカギは「共生」であり、抑止と緊張緩和のバランスをとりつつ、アジア太平洋をより安定させる外交努力を強く臨んで止みません。この度、安全保障関連法案は成立されましたが、憲法に抵触する疑いが強い法制ですので、成立してなおその是非を問い続けることは言うまでもないことでしょう。私は戦争体験を通して、2度と戦争は許せないとの思いに変わることはありません。私の「戦争反対」の旗は小さいかもしれませんが反旗を掲げ続け、子孫へ9条だけは手をつけずに残してやりたい。
 ☆追 記
(1)恩師の大林 幸男先生は小学校4年で担任になり、卒業するまでご指導いただきました。学童疎開時代は、ご家族を奥様の実家へ疎開させ単身赴任で職務を遂行されました。先生は柔道で鍛えられた立派な体格でしたが、私達が卒業した後、肺結核になり清瀬療養所へ入院され級友と見舞いに療養所へ出掛けました。職務復帰後、校長職を経て定年を迎えられました。先生は包容力があり生徒に慕われ信頼されていましたが、退職後間もなく逝去され告別式(横浜市戸塚区)に参列しました。当時の学童疎開を追想し、恩師大林 幸男先生を偲んでいます。
(2)私の母親の姉夫婦(叔父・叔母)は、娘(従姉)と孫(当時5歳)を母親の故郷新潟県長岡市へ疎開させました。疎開先の親戚の家族が長岡市病院に入院し、その看病のため病院へ出掛け、慣れない土地の長岡市空襲(1945年8月1日)で娘(従姉)と孫は悲惨にも焼死しました。叔父は娘と孫の死のショックと全焼による心の病で闘病生活を続け、最後は松沢病院で死亡し戦争の犠牲者となりました。
 東京大空襲の経過
日本軍によるマレー半島侵攻とハワイの真珠湾奇襲で、太平洋戦争の火ぶたが切って落とされたのは、昭和16(1941)年12月8日である。
東京初空襲は開戦の僅か半年後、昭和17年(1942)4月18日に米国空母から発進したB25による空襲で東京、横須賀、名古屋、神戸などの各諸都市が爆弾、焼夷弾投下に加えて機関銃を乱射された。奇しくも同じ日に連合艦隊司令長官山本五十六が、ソロモン上空で敵機に攻撃され戦死した。これまた日本軍の暗号は敵にすべて解読されていた。東京初空襲があって、ざっと2年半が経過した。昭和19年(1944)6月までの間、東京上空に敵機の姿を見ることはなかった。しかしそれは日本軍の守りが強固で敵を寄せつけなかったのでなく、態勢を整えた米軍は日本本土に向けて、一歩一歩と強力な足場を確保していたのである。B29が東京上空に登場するのは、もはや秒読み段階になってきた。これよりはやく、「都市疎開実施要綱」の閣議決定により、空襲による火災などの被害を最小限にふせようと、各分野での疎開命令が出された。

疎開はほぼ3種類に分けられる。@生産疎開(都市部から軍需工場を分散移動)、A建物疎開(延焼を防ぎ消化活動を容易にするために、密集地から建物を取り壊す)、B人口疎開(防災活動に足手まどいとなる老人や病人、そして同時に次の戦力たる幼児、学童を対象にしたもの)。建物と時を同じくして、昭和19年(1944)8月から学童疎開が始まった。3年生以上6年生までの児童が対象である。当初、政府は学童の疎開を避難ともみなしていたが、空襲が近づくにつれて、都市部の子供が足手まどいとなることを恐れ、また次世代の戦力育成と小国民の練成の場として、踏みきったとされる。東京ではつぎつぎと両親たちの住む町を後にした。ピクニックに行くようなつもりでハシャイデいた子供たちもいたが、駅頭に見送る親たちは、これが今世の別れになるかもしれず、断腸の思いである。
沖縄から本土に疎開するはずの学童800余人を乗せた対馬丸は、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃で沈没した。学童たちを含む1,500人が本土入港を前にして海のもくずと消えたのだった。学徒の総動員は340万人余とされるが、国民がそれこそ「1億火の玉」となって、戦列に参加すべき時がきてしまったのである。昭和44年(1944)11月1日、東京上空に、白線のような飛行機雲を引いてきらきらと光る一点の物体が飛来した。コメ粒しか見えなかったが、マリアナ基地を発進したB29の初登場である。B29はさらに5日、7日と1機ずつ連続してやってきて、入念な偵察飛行をしている。B29は当時としては最高の機能を持つ長距離の戦略爆撃機だった。重量54トンもの巨体でありながら十数門の機関銃を添え、最高速度600キロ、実用上層限度12,500メ−トル、航続距離は5,200キロ、そして爆弾(焼夷弾)の搭載量は5〜8トン、乗員は10〜14人。それに対して日本が誇る「零戦」こと海軍零式艦上戦闘機は、B29の重量の十分の一にも足りない小型機で、最高速度は570キロだ。軽量なら快速と思いたいところだが、B29のスピードには及なかった。

11月24日、ありとあらゆる準備を完了した80機からなるB29の大編隊が、6機あるいは10数機の数悌団に分かれて襲来、都下武蔵野の中島飛行機製作工場に向けて、爆弾攻撃の火ぶたを切った。いよいよ東京空襲の幕開けである。次いで27日、12月3日と同工場は連続波状的な猛爆撃を受ける。12月に入るとB29の攻撃目標は都市部へと拡大し、大編隊に分かれて連日連夜にわたり来襲。大軍事目標には破壊力のある爆撃機が主で、人口密度地域には各種焼夷弾が投下された。木造家屋群には、ほとんどM69と呼ばれる油脂焼夷弾が使われた。M69は集束弾だが、落下する途中で分解して2.7キロ級38発もの小型焼夷弾に変る。日本の諸都市の木造家屋を空襲するために開発された小型のナパーム焼夷弾である。ナパームとはグリセリンとガソリンを混合して、どろどろの油脂にしたもの。12月は計15回もの空襲で、延べ136機のB29が東京を襲い、爆弾と焼夷弾が同時に投下されて、751人の死傷者が出た。
昭和20年(1945)、元旦。B29はさらに意地悪く、新年を告げる鐘の音とともにやってきて、下町浅草方面を狙う。この不吉な『お年玉』を皮切りにして、1月中の来襲機は200機を超え、人的な被害は前月のそれを軽く超え倍増した。特に酸鼻を極めたのは、1月27日午後、約270機の編隊による有楽町・銀座界隈への集中爆撃である。特に大型の直撃弾を受けた有楽町駅は、コンコースから階段、ホームまで埋め尽くした死体で、足の踏み場ないばかりの修羅場と化した。有楽町駅やその付近の死者は100人を超え、負傷者はトラック300人以上で、死体はトラック2台で日比谷公園の仮収容所に運ばれた。都市部の無差別爆撃の始まりである。2月、敵の来襲撃はB29の他に空母から発進した艦載機も加わって751機に達し、死傷者は1,947人になった。特に、大被害となったのは、都市部から東部方面への本格的な集中攻撃で、神田、本郷、下谷、浅草、荒川、向島の各地に被害が波及した。1月から2月にかけて、敵の来襲機は実に7倍にもなり、罹災者は13倍にも膨れ上がったのである。

3月10日、東京下町の深川区(現在、江東区)に第1弾が投下され、爆撃は2時間で終了したが明け方で東部一帯をなめつくした。特に、本所区(現墨田区)、深川区(現江東区),城東区(現江東区)、浅草区(現台東区)は全滅に近く、一夜にして東京は、見るも無残な廃墟と変わっていた。江東地域を焼きつくしたB29の大編隊は、その勢いを駆って、たちまち機首を西に転じた。12日名古屋、13・14日大阪、さらに17日神戸へと、首都に次ぐ大都市に向けて次つぎと無差別焼夷弾爆撃のラッシュとなった、この間においても戦局は悪化の一途をたどった。東京に第2次の大規模空襲の火の雨が降り注いだのは、4月の半ばである。4月13日、348機、B29が東京西部地域を目標に、赤羽、豊島、王子、小石川、荒川、四谷、牛込などの各地域を襲い、15日には、118機が焼け残りの西部方面から大森、蒲田の城南・京浜工業地帯の広域な地域に、連続波状攻撃をかけた。この両日にわたる空襲で約2万戸の家屋が焼かれたが、死者は3,300人で、投下弾は3月10日と同じだったが、人的被害の比率は少なくすんだ。

5月に入ると、戦局はまだまださらに緊張度を増してきた。3月9日までは少数機で日中を高高度で飛んできたB29は、数百機からなる大編隊となり、昼夜をわかたず、しかも目標への出撃態勢OKとなる。日本本土爆撃はもはや圧等的な勢いで、彼等(米軍)の思うがままとなった。
5月24日がその前哨戦で、24日午前1時30分頃に警戒警報が発令、間もなく空襲警報が鳴り、B29、558機が集中して、渋谷、世田谷、杉並、目黒、大森、品川区を襲った。約2時間余にわたり3,600トンの焼夷弾を投下して、死者762人と、死傷者4,30人を出した。そして、さらに決定的とも言える止めの猛爆撃が、翌25日の昼と夜である。やつぎばやの連打だった。B29、498機が、まだ焼夷弾の洗礼を受けていない都内の残存地区に向けて、油脂、黄燐、エレクトロンなど各種高性能焼夷弾3,300トンを一挙に投下した。3月10日下町大空襲の実に2倍に近い物量である。被害者は山の手方面を中心にして全都に及び死者3,242人、負傷者1万3076人となる。「名古屋とともに焼夷弾攻撃リストからはずされた」とアメリカ側資料にある。その被害地域は東京区部をしらみつぶしにして、南・北多摩にまで広範囲に拡大した。しかし、これで都民の火焔地獄が終了したわけでなかつた。5月29日、横浜からなる連合大編隊の一部が都内に侵入、爆弾焼夷弾を混投した。大森、蒲田、品川、芝、牛込の各区に相当な被害が出る。5月末までの第3次にわたる大規模な無差別爆撃機によって、東京山の手地域と焼け残りの地区全体で、隙もなくこれまでにない密度で焼夷弾の豪雨が降り注ぐことになる。東京は50.8%に当たる56.3平方マイルを焼失した。6月以降、大都市爆撃を終えたB29は全国の中小都市に照準を向けた。東京では8月上旬までB29小数機による散発的な爆撃が繰り返させられた。8月15日午前1時、B29少数機が西多摩郡故郷村に焼夷弾を投下した。これが東京最後の空襲となり、その14時間後に無条件降伏を伝える天皇のラジオ放送で、都民はやっとのこと不吉な空襲警報のサイレンから解放された。マリアナ基地出撃のB29による空襲開始の昭和19年(1944)11月から翌年8月15日終戦の日まで、およそ9カ月にわたり、東京は120回もの空襲の火の雨にさらされた。東京市街地区の6割を焼失し、開戦時に687万人だった区部の人口は、約3分の1の253万に激減した。それでは東京を爆撃した敵機は何機で、何発の爆弾、焼夷弾が投下され、被害はどうだったのかその全貌を把握することの可能な、確かな統計はない。東京空襲、戦災によって出た人的被害は、死者11万5,000人以上、負傷者約15万人、損害を受けた家屋約85万人、被災者約310万人と推定される記録はある。

 ☆☆ 参考文献:「東京大空襲」河出書房新社の文献を抜粋し編集☆☆

学童疎開 上野駅
 <疎 開 先 の 寺 子 屋 教 育> ― 児童たちの寺子屋での一日 ―

その1

その2

その3

その4

B29

焦土に仲見世外郭(浅草)
 あとがき
兄が軍隊に入営(1945年6月1日)するため、私の学童疎開先、静岡県伊東市から自宅(実家)に連れ戻されました。その日(5月23日)の深夜(24日AM1時30分頃)に東京地区の3次大規模空襲によって、私の家は焼け火が降り注ぐなか、防空壕から脱出し逃げまどいました。家族の誰かが持っていた一枚の敷布が私達家族を救い、命を落とすことなく救われました。戦争から70年を過ぎた今も記憶が鮮明によみがえっています。戦争の怖さ、恐ろしさ、親元を離れて暮らした貴重な疎開体験を「学童疎開&東京大空襲」の戦争体験記にしました。
年々戦争を知らない世代が増えるなかで、太平洋戦争のことを知り・理解し・深めていくことが極めて大事なことだと思います。戦後70年、太平洋戦争の悲惨さを改めて考えさせられる1年でした。
初版は昨年4月に発行し、その後、戦争体験記をBrush upして、参考文献「東京大空襲」(河出書房新社)から抜粋し、「東京大空襲の経過」に編集して本戦争体験記(2版)としました。
2015年12月15日  著者

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